吉本敏洋氏に敵認定されたRuby開発者まつもとゆきひろ氏(2)
吉本敏洋氏に敵認定されたRuby開発者まつもとゆきひろ氏(3)
の続き。予定を変更してもう少し続ける。
というブログ記事があった。この記事は非常に的確にこの問題をあぶり出していると思われるので、引用して紹介したい。
まず、この記事では後半だが、吉本氏の「議論の姿勢」について、痛烈な批判が行われている。
「とか書くのは、人間としてどうかと思うぞ。」とまで言われてしまう吉本氏である。「大げさにしたくは無いと思っている」が「面倒だったら自分の媒体に書けば良い」(=自分の力をもってすれば大ごとになるぞ、という恫喝)が問題視されている。議論の姿勢
そこで、Rubyの一利用者としては、rubyistサーバー上から、モルモン教に関する記述を全て削除し、別の日記として公開すべきだと思うのですが、どうでしょうか? それとともに、rubyistサーバーやRAA利用のガイドラインとして、特定の政党や宗教との分離を掲げる方が良いのでは無いかと思いますが、いかがでしょう?と書いておいて、補足ですが、別にruby-listで議論を続けるつもりはありません。 書きたいことは最初の投稿で書きましたし、そもそも続けても無駄なので。とか、現在のところ大げさにしたくは無いと思っているのですが、面倒だったら自分の媒体に書けば良いだけですので。とか書くのは、人間としてどうかと思うぞ。
まさにそのとおりである。勝ち負けの問題ではない
管理者側の方々と議論しても勝てるわけないし、勝つつもりも無いのですが、勝ち負けの問題ではなく、ある人の書く文章から、信仰の告白を奪う権利が他者にあるのかどうか、という問題だと思う。
「ある人の書く文章から、信仰の告白を奪う権利が他者にあるのかどうか、という問題だと思う。」
「言論の自由について考えています」と標榜する人間に対する指摘としては、致命的なポイントを突いていると思われる。
さて、このブログ記事の前半が大変に秀逸である。引き続き引用する。
なんと良識に溢れた意見だろうか。日記は生活の記録だから
本人が宗教と密接に関わる生活をしていれば、それに触れるのが自然なことだ。触れないのは不自然だし、隠しているように感じられるだろう。なぜ隠す必要があるのか、隠す必要があるような後ろめたいことがあるのか?と勘ぐられてしまい、かえって正しく理解してもらえなくなる。
普段から自分と宗教の関わりを自然に書き留めているmatzさんの姿勢は、至極真っ当なものだと思う。他へ分離して隠すことのメリットがあるのか?
いまmatzさんの日記から宗教との関わりを削除してしまうと、それはとても不自然なことになる。それはmatzさんから宗教人としての日常を取り去ることであり、本人の日常のかなりの割合を占めている宗教というものを、本人のイメージから不自然に分離する結果になる。
それは逆にmatzさんに「隠し事をする人」というイメージを付加してしまい、matzさんのためにも、Rubyコミュニティのためにもならない。Rubyの発展には寄与しないどころか害になるかもしれない。
隠し事をするな、というのではない。本人が分かちがたい生活の一部として敢えて晒している宗教との関わりをわざわざ隠すことは、何のイメージアップにもならない、ということを言いたい。それは隠さなければいけない宗教なのだというイメージを醸し出して、特定の宗教に対する偏見をかえって助長する結果になる恐れがある。現状を正しく評価しよう
現状は以下の通り。
重要なのは、「Rubyが言語として優れているという現在の認知状況は、matzさんがどのような宗教を信じているかということに関係なく、公平な評価の結果としてもたらされたものだ。」という部分だろう。ある特定の宗教を信仰しているがゆえに、またその宗教への信仰を表明しているがゆえに、その理由のみをもってして、まつもとゆきひろ氏の功績を全否定しようと躍起になる〈吉本敏洋的メンタリティ〉がここで全否定された。
しかも、「ソースコードと宗教の分離」はしっかりとなされている。もう一度確認しよう。
この3条件を満たしている以上、何の問題もない、というk3cさんの主張は、正しい。
- インストールするときに特定の宗教に関連するWebサイトに誘導されたりしない
- 使っているだけでいつのまにか特定の宗教の集会に出席していたりしない
- オープンソースなのでそのようなあやしいからくりが無いことは容易に確認できる
「カルト宗教と戦っているボク」を演出したいだけの吉本敏洋氏の攻撃は、このように徹頭徹尾、誤りだらけなのである。
その論理は、もちろん、「悪徳商法と戦っているボク」を演出したいがゆえに過去の新聞記事を晒し続ける姿勢ともつながっている。
この項さらに続く。